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音楽劇「恐るべき子どもたち」/「大人」と「子ども」の境界線

この週末は山本一慶くんと黒羽麻璃央くんが出演している音楽劇「恐るべき子どもたち」を観ていました。原作はフランスの詩人ジャン・コクトーの中編小説「恐(怖)るべき子供たち」。数年前に松山ケンイチさんがカバーモデルになってる文庫版が話題になってましたね。

怖るべき子供たち (角川文庫 (コ2-1))

怖るべき子供たち (角川文庫 (コ2-1))

 

 翻訳ものなので漢字表記がいろいろなのですが、小説版は全て「こども」は「子供」と漢字で書かれています。「ども」を開いて表記しているのは萩尾望都の漫画版「恐るべき子どもたち」。

恐るべき子どもたち (小学館文庫)

恐るべき子どもたち (小学館文庫)

 

 私はこれは未読なのですが、読んだ友人によると今回の舞台もやはりこれを元に作られているらしい。Twitterで一慶くんがこれを読んでる写真が上がったりもしてましたし。

 

あらすじは、以下の通り。

主人公のポール(山本一慶)はある日、中学校での雪合戦の最中に、同級生のダルジュロス(大久保聡美)が投げた石の入った雪玉を胸にくらい病気になってしまう。元々体があまり丈夫ではなかったポールは、そのまま学校には行かず家で療養することに。一方ダルジュロスも、そのあとすぐに学校を辞めてしまった。

ポールはモンマルトルの片隅の家の中で、姉のエリザベート(山本沙也加)と病気の母、そして友人のジェラール(黒羽麻璃央)と生活を続ける。ポールとエリザベートはお互いのことが大好きだったのに、素直になれずに言い争いばかりしている。ジェラールはまた、エリザベートに密かに片思いしていた。

そんなある日、母親が死亡。家の中には姉と弟だけになる。このままでは生活ができないと思ったエリザベートは、ジェラールの紹介で町の洋裁店で働くことに。そこで知り合ったアガート(大久保聡美)という女の子と親しくなり、彼女を家に連れてくる。やってきたアガートを見てポールは驚く。なぜなら彼女は、ダルジュロスにそっくりだったからだ。ダルジュロスのことが好きだったポールは、アガートにも惹かれていく。アガートもまた、一目見たときからポールが気になり始める。

しかし、エリザベートはそれが気に食わない。二人が自分の恋心を自覚し、想いを伝えようとすると、エリザベートは妨害する。巧みな話術で自分以外の三人を誘導し、結局アガートとジェラールを結婚させてしまう。

更に数年が経ち、叔父の仕事を継いで立派な大人になったジェラールが二人の家を訪ねてくる。ジェラールは胸ポケットから小さな包みを取り出し、ポールに渡す。「ダルジュロスに会った、これは彼からもらった麻薬だ」と言って。それはポールが中学生の頃に欲しがっていたものーー”毒薬”だった。

ここから、物語は加速する。愛しているアガートに失恋したショックで、ポールはアガートに遺書を送りその毒薬に手を付ける。異変に気付いたアガートがポールの元に駆けつけると、ポールは瀕死の状態だった。「どうしてこんなことをしたの!?」悲しむアガートにポールは言う。「君が僕を拒絶したから。僕は君を愛していたのに」「どういうこと?」そこで二人はようやく気付く。お互いがお互いを愛していたことに。エリザベートの企みで、引き離されていたことに。「悪魔!」ポールは苦しみながらエリザベートを罵る。全てがばれてしまったエリザベートは、自ら拳銃をこめかみに当て命を立つ。薄れゆく意識の中、ポールは幼いころのダルジュロスの幻影を見る。「ダルジュロスは広場にいる」ポールはふらふらと歩き、絶命したエリザベートに寄り添うようなポーズで命を引き取る。口元に笑みを浮かべたまま。

 

全体を通して不思議で難解なストーリーなのだけど、その難解さの要因の一つが「夢幻へ出掛ける」という独特の言い回しなのではないかな~と思います。作中出てくる「出掛ける」という言葉は、実際に外に出ることではなく、「空想の世界へ旅立つこと」を意味しています。子どもの頃、誰でも一度はやったことのある「空想ごっこ」です。空想の世界は美しく、その世界の中では何でも自分の思い通りになる。始めの方のエリザベート→ポールへのセリフで、「あんた、出掛けたわね?あんたは出掛けた。なのに私にはうんざりするくらいの仕事がある!」というようなものがあるのですが、これを聞いて私は、この「夢幻」とは単なる子どものお遊びではなく、辛い自分たちの現実から子どもが身を守るための逃げの手段だったのではないかと思いました。「仕事」ーーつまり家事や、病気の母親の介護と比較しての「夢幻」。

ポールもエリザベートも「大人」になることを拒み、どちらかが「大人」になろうとすれば必ずどちらかが足を引っ張る共依存の関係を続けます。例えば、エリザベートが「仕事」を始めて大人になろうとしたときポールは「淫売の弟なんてまっぴらごめんだ!まだ立ちんぼの方がマシだ」と酷い言葉で罵るし、アメリカの富豪と結婚を決めたときも一人だけかたくなに祝福をしません。まぁ、運命のいたずらか、その富豪もすぐ交通事故で死んでしまうんですが。一方、エリザベートも、ポールが異性(アガート)への「恋心」を自覚し「大人」になろうとした瞬間に、あの手この手で妨害します。そして結局二人は「子ども」のまま、ずっと暮らしてきた「子ども部屋」の中で死ぬ。結局、二人とも「大人」になって「夢幻」(自分たちを守る術)への扉が閉ざされてしまうことが怖くて、互いに抑制しつつ、永遠に子どものままでいることを選んだのかなと思いました。

 

…と、話していて分かる通り、この物語の主人公はポールとエリザベートです。ジェラールとアガートは物語の途中で「結婚」し「大人」になってしまうので、子ども部屋にいることができなくなって、「外の世界」の人間になってしまう。んですが、今回私が強く感じたのが、一慶くんと麻璃央くん演じるポールとジェラールの対比について、でした。私がこの二人が好きだからなんですけど、停滞し続けるポールとどんどん成長を続けるジェラールの対比があまりにも明確すぎて、(主にジェラールに対して)うぐぐ、ってなってました。

 

一番最初の雪合戦のシーンで、ジェラールは冷え切ったポールの手を握りしめて呟きます。「ポールの手の熱が伝わってくると、そこから意識がすぅーっと遠のき、夢想が始まる。ポール、僕たちはもう、地上にはいないよ」ポールと手を取り合っただけで「夢幻」に行くことが出来ていた子ども時代のジェラール。しかし、すぐにエリザベートに恋をして、大人の階段をひとつ上がってしまいます。夏の間中エリザベートと一緒にいたい、というだけの、まだまだ青い恋心。でも、確かに彼はもう「子ども」ではない。一幕の最後、ジェラールは前をまっすぐに見つめこのようなセリフを言います。「僕が今でも思い出すのは、雪の中車でポールを送っていったあの日。(略)でも、そんな子ども時代の遊びはもう終わってしまった」…めっちゃセリフがあいまいだな…ここすっごいイイシーンなんですけどぽんこつなので覚えきれなくてすみません。漫画読んだら分かるかな。

で、二幕では冒頭からもうジェラールだけが明らかに「大人」になって出てくるんですね。一人だけ髪形が七三分けに変わるんです。高級なスーツに身を包み、髪を整え、見た目は立派な「大人」になりました。そして彼を決定的に「大人」たらしめるのが、エリザベートへの恋心を諦め、アガートと結婚を決めたときなのでした。エリザベートに「アガートはあんたのことが好きなのよ」と嘘をつかれ言いくるめられたジェラールは、彼女への想いを断ち切ってアガートにプロポーズすることを了承します。そんな彼にエリザベートは念を押すようにこう言います。「キスしてよ。キスをして、世界一幸せだって言いなさいよ」ジェラールは、エリザベートにキスをし、抱きしめ、「…僕は世界一幸せだ」と自分に言い聞かせるように呟くんです。ここの麻璃央くんの表情が本当に秀逸で、見てるだけでボロボロ涙が出てくる。好きな女性にようやく初めて触れられる、でもそれは彼女を永遠に諦めて好きでもない他の女性と先へ進むための儀式なんですよ、せ、切なすぎるだろ…!!!

精悍な見た目に「建前」と「諦め」を装備したジェラールは完全な「大人」になり、遠い場所に家を買い、叔父の仕事を継ぎ、エリザベートとポールと距離を置くようになってしまいます。ジェラールはこの物語の中で一番まともで一番真面目で、それゆえに一番の部外者であり圧倒的に他人だったなあと思います。

一方で、ポールはその間ひたすらアガートに気持ちを伝えたいけどどうしたらいいのか分からない…と言いつつソファでごろごろしているわけです。一般的に見るとおかしいのは明らかにポールの方。ジェラールが成長すればするほどポールの停滞は引き立つし、逆もまたしかりだな、と思いつつ観ていました。

 

こういう観方をしてしまったのは、たぶんこの舞台の前に一慶くんと麻璃央くんが二人で出演していたアメスタでの一慶くんの発言が原因なんですけど。

この日のアメスタは一慶くんの26歳の誕生日をお祝いするという趣旨で、二人でケーキを食べたりシャンパンを飲んだりしつつだらだらと話してくれていたのですが、最後に「26歳の山本さんから21歳の黒羽さんへ一言」みたいな振りをされたときに、「俺は精神年齢が18歳で止まってるけど、麻璃央は俺より先に大人にならないでね」(要約)というようなことを言っていたんですよ。えっ、こ、これは、舞台への複線では?!みたいな…。

その後二人のトークイベントなどもありまして、まぁそっちにも行ったりしたんですけど、この二人の仲の良さって本当に「若いな~」って感じの仲の良さなんですよね。箸が転げただけでも楽しい感じというか、青春満喫してる感というか、そういうのがあって、だからキラキラしていて見ててほんとにかわいいな~楽しいな~って気持ちになるんだけど。テニミュはもうテニミュそのものが「青春の箱庭」なので、中にいる人たちが青春してても何の違和感も感じないんですけど、一歩外に出てみると、成人した男性俳優がこんな風に曇りない青春を身に纏ってるところって実はそんなに見る機会なくて、際立つんですよね。だから二人がこのタイミングでこの舞台をやったこと、私はとても意味があると思っているし、この二人じゃなかったら、ここまでポールの「子ども」性についてだったり、ジェラールの「大人」性についてだったり、考えられなかったな~と思うので、二人に感謝です。

 

もちろん、さやかちゃんも聡美ちゃんも発くんも三者三様にとても良いお芝居をしていて、若い人ばかりの舞台だったけどすごく見応えがありました。五人とも立ち振る舞いと顔に品があるから、外国の文学作品が似合っていたな~。できることならまたこのメンバーでの舞台を観たいですね。頼むぜアーティストジャパンさま。

 

まだまだ、舞台について噛み砕きたい部分たくさんあるんですが、結局役者萌えみたいなところに帰結してしまうので私ってほんとに根がアイドルおたくだな~とか思う昨今です。でも本当に素晴らしい舞台だったので、記憶を薄れさせないためにも何かまた気付いたことがあったらぼちぼちブログかTwitterにメモしておきたいと思います。

 

長々と読んでいただいてありがとうございました。